人に頼るのが苦手だ。
見えないけどそこにある。
見えないけどそこにある。そこにいる。
私は大学時代ミナミコメツキガニと言う、種子島以南に生息する特有のカニの研究をしている際、天敵が来ると素早く穴を掘って干潟の土の中に身を潜めるその習性から、彼らの生息域を調査する私たちに向けて、教授が毎日のように投げかけてくださっていた言葉です。
見えないところでも毎日変化は起きていて、日々変化しています。ミナミコメツキガニは体長10mm程しかありませんが1日に広大な土地を耕し、自らも摂食することで表層面の干潟の土壌を豊かなものにしています。
自分が日々やっていることも小さいですが、大きな流れの一滴です。
個人と共同体。
最近、個人への評価はエゴとか横領とかズル賢さの副産物だと感じていて、個人で行うことが最終的にどこへ向かうのか、それを考えることで個人の貢献が個人の財産に留まるのか、個人の枠を超えていくのかが決まるのだなと考えています。
最終的に共同体への貢献って意識は大切。
この数年で私にも少なからず、保育・幼児教育の分野で仲間ができました。そこへの貢献を考えた時に私は未だに個人の枠を出れていないと感じている、また来年からの立ち振る舞いを考えると今までとは違った方法でその貢献を考える必要があることに最近悩んでいます。
SNSを始めてから承認欲求と他者貢献がどうもごっちゃになってしまいがちな自分に最近響いた一文。
"未知のことばかりでした。でも、全部、自分で判断して決めました。そして、なにひとつとして
いままでどおりのやりかたではやりませんでした。わたしは、すこぶる幸せでした。
『ムーミンパパの冒険より』
ムーミンパパの言葉が響くとは。
自分で行くと決めて、あまりにコミュニティが狭く他者を評価を気にすることなく自然と自分軸を持てていた西表島での生活。
あの時面倒を見てくださっていた教授も今年度で引退です。同期のアルバムを絶賛制作中!
効率が良いってなんだ?
英語の学習という点において、私は結構アナログです。いまだに手書きの単語帳を作っていますし、日頃利用しているアプリはpodcastsとTEDICTくらい。
単語帳に書いてある単語は、私の実体験とダイレクトに繋がっているので、勉強としてではなく経験として学んだ単語を見返すことができ、単語を思い出す時は経験がセットです。
そして同じ単語が何回も出てきます。一度書き込んだ単語でも会話の中で出てこなかったり、見返して"これを使えばよかった"と気づいた場合は再度書き込む。学んだ単語を活用することができなかったというネガティブなところも含めて、英語と向き合う自分の体験としてこの単語帳に反映させています。
タップひとつで単語を保存してくれて、学習時には自動的にランダム再生して学び直せるアプリなどに比べると、確かに時間も手間も掛かりますが、いろんなものに手を出してみた結果この方法が自分には合っていると感じたのでひとまずこのやり方を貫いています。過程も含めて、記憶に残りやすく定着させるという点では効率的だと考えています。
そう考えると効率が良いってなんでしょうね。
時間や手間を減らす・なくすことだけではない。たとえ時短になっても、本人が目的に近づけていないと感じたら、それは効率的ではなくなる。
先日「効率を説く本は、曖昧でザックリしてるものか、具体的すぎるものか両極端」と感想を述べている友人がいたのですが、そうあって間違いではないのかなと感じます。"効率が良い"の意味はそれぞれ異なり、具体的な方法を完全コピーしてみるのも、書籍からランドマークになりうるヒントを見つけて点と点を繋げる作業をしてみるのも、両方やってみるのも、やらないのも、それらの選択も含めて自分ですね。
自分で考える力。
自分なりの学習方法を編み出す力。
それをつけるためには時間を掛けて試行錯錯誤してみることも必要だなと感じます。
子どもたちと過ごしていると、どうしても結果を先走ってしまう瞬間があります。
先回りして経験を顧みて
「この前◯◯だったでしょ。」
経験の多い保育者です。
「◯◯は〜だよ。」
「それじゃなくてこっち。」
よく保育者向けの雑誌やSNSの投稿でも見かける話です。知っている・理解していることと行動のギャップをどれだけ埋められるかが、残り2ヶ月でより詰めたいところですね。
今日はサバイバルナイフの基礎講習を受けてきました。そしたら主宰の方が子どもたちにアウトドアスキルを伝えながら"自然欠乏症候群"について広めている方でした。
動くと繋がりますね。
付いていけていないのは身体だけではなかった。
SNSのマーケティング戦略にまんまとハマり、気づけばTwitterでフォローしてたり口コミを見て目にした方の書籍を読みまくっていることに気づきました。
最近「気温差が激しすぎて身体がついていかない」的なツイートを投稿しましたが、私たちが付いて行けていないのは身体だけではないなと実感する記事がSNSで回ってきました。
「それってズルくないですか?」
「他人の幸せがつらい。」
そもそも相手が自分よりも上に見える・恵まれて見える基準となっているものは何でしょうか。
少し前、私たちの親の世帯までは持ち家があったり、車があったり、国立大学に入学するなど、ステータスを表すものさしがより明確であったように感じます。
今はホテルを転々としたり、サブスクリプションで国内国外を移動しながら生活するスタイルも現れて、持ち家があり定住できる場所があることの見方は以前よりも変化していますし、車に関しても購入する若者の数は減少傾向。同性婚や子どもがいない家庭の在り方も広がっています。実際私の周りでも事実婚の方は増えている。
幸せに対する考え方が多様化しているなぁーとしみじみ。
誰だって自分の幸せや望みを追いかけて叶えたい願望が多かれ少なかれあると思います。あって良いんです。
他人を比較の対象として捉えないこと
第三者的な視点を持つこと
そして、世間の流れをしっかりと捉えていく事。
私の親を見ていても、主な情報の収入源はテレビ、新聞。しかし、SNSを開けば、テレビメディアでは扱われない情報がたくさんあり、オンラインサロンなどグループでのみ共有されている情報や仕事がある。
自分の置かれている立場は、他者に影響を受けて困難に直面することはあっても、そこある選択肢を選び、作ってきたのは私たち自身です。
「若い人はどこでも就職できるのがねたましいし、腹が立つ。私なんかはもうどこにも行くところがない」
その問いをぶつけたいのであれば、それは他者ではなく今までの自分自身だと思うのです。
自己責任の姿勢。
最近まとまらない頭の中の忘録。
その言葉はどこから評価して出たものですか?
こんな こ いるかな。 きみがいるからおもしろい。
こんな こ いるかな
というアニメ・絵本をご存知の方はいらっしゃるでしょうか。1986年からNHKテレビ「お母さんといっしょ」の中で放送されていたショートアニメーションで性格や行動の異なる12人のキャラクターで構成されています。
今回、そのキャラクターたちをシャドーボックスにした展示会があるというので、仕事と仕事の間に行ってきました!
シャドーボックスの緻密さに触れて、小さな頃のことを思い出して嬉しくなったと同時に、私たちはこんなに優しいメッセージと共に育てられたんだと胸が熱くなりました。
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人はみんな同じではない。顔や体や性格が違うのは当たり前。よい子・わるい子なんて考えもしない。子どもたちに「きみがいるからおもしろい」ということを伝えたかったからです。
子どもたちに受け入れられたのは、しくじっても叱られない、のびのびと遊びまくれる"解放区"を見つけ安堵・共感したからからではないでしょうか。
もちろん性格はそんなに単純なものではありません。でも、性格を一つだけ表すキャラクターの分かりやすさが好まれたのです。自分と似た部分を発見したり、優越感を感じたりしているのです。
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金子みすゞが「みんなちがってみんないい」と歌った時代、こんな こ いるかなが放送され「きみがいるからおもしろい」とテレビで流れていた30年前から、子どもたちのありのままを伝えるメッセージがあったこと。
そして、大正自由教育運動の中にあり、それまでの画一的な教育と子ども中心の教育を目指す運動の渦中にいた金子みすゞも、こんな こ いるかなの放送が始まる少し前、戦後に施行された旧教育基本法の前後で育った先生たちで教育や子どもに対する意見の相違が出ていた昭和40年〜60年頃にも、今私達が話しているような子ども主体という考え方を進めようとする動きがあった事実。
数十年以上の間続く、子どもや教育に対する現実とその時代のギャップに圧倒された一日でした。
幼児教育無償化がはじまり、英語・プログラミングが小学校で必須となるこの数年間の大きな流れは後々どのようにウィキペディアに載るのか。
(あるか分かりませんが...)
その流れの中に間違いなくいる自分を見つけ直すきっかけになりました。
それにしても可愛かったなぁ。
Activity Dayから省みた、魅せようとしていた自分。
先日、Activity Dayで園を飛び出して親子で遊びました!ミニ運動会のような感じかな。
先生がそれぞれアクティビティを考え、サーキット形式で子どもたちが保護者の方と回る。ヨガを取り入れたり、先週から始まったラグビーワールドカップに因んでラグビーボールを使ったゲームもありました。
時間が経つのがあっという間で、子どもに負けず楽しんだー。
最近感じるのは、季節などひとつテーマがあったり、使う廃材が決まっている中でアイデアを出すのは得意だけど、何も条件がない真っ新な状態でアイデアを出すのは苦手だという自分の性格。
また、先生たちが考えたアクティビティを見て、自分だったら何をするだろうと考えて、子どもたちが参加するゲームに世界観を求めている自分に気づきました。
ミニコーンの下に隠してあるボールの中から、自分が選んだボールと同じ色のボールを探してくるというシンプルなゲームでも、以前の自分だったら装飾を加えようとするだろうなと。たとえば、ボールを子魚に見立てて、子どもたちが被る魚の帽子をバトンがわりにするとかね。「なにをするか」「どうやるか」よりも「どう魅せるか」だったのかな。旗体操やりまーすで良かったところを、なぜ「水兵さんに変身した子どもたちと銘打っていたのか、今思い返すと疑問が湧く。そして子どもたちは後付けで水兵さんが何かを学んでたな。
先日参加した文章のリライトを行う中でも感じたシンプルにすることの難しさは、これからの働き方、プライベートでも、ひとつ課題になっていくのかなと思います。たくさん考えて一周回って帰って来たシンプルは強い。