とことこ保育

人生で間違いなく大切な乳幼児期

効率が良いってなんだ?

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英語の学習という点において、私は結構アナログです。いまだに手書きの単語帳を作っていますし、日頃利用しているアプリはpodcastsとTEDICTくらい。 


単語帳に書いてある単語は、私の実体験とダイレクトに繋がっているので、勉強としてではなく経験として学んだ単語を見返すことができ、単語を思い出す時は経験がセットです。


そして同じ単語が何回も出てきます。一度書き込んだ単語でも会話の中で出てこなかったり、見返して"これを使えばよかった"と気づいた場合は再度書き込む。学んだ単語を活用することができなかったというネガティブなところも含めて、英語と向き合う自分の体験としてこの単語帳に反映させています。

 


タップひとつで単語を保存してくれて、学習時には自動的にランダム再生して学び直せるアプリなどに比べると、確かに時間も手間も掛かりますが、いろんなものに手を出してみた結果この方法が自分には合っていると感じたのでひとまずこのやり方を貫いています。過程も含めて、記憶に残りやすく定着させるという点では効率的だと考えています。

 


そう考えると効率が良いってなんでしょうね。


時間や手間を減らす・なくすことだけではない。たとえ時短になっても、本人が目的に近づけていないと感じたら、それは効率的ではなくなる。

 


先日「効率を説く本は、曖昧でザックリしてるものか、具体的すぎるものか両極端」と感想を述べている友人がいたのですが、そうあって間違いではないのかなと感じます。"効率が良い"の意味はそれぞれ異なり、具体的な方法を完全コピーしてみるのも、書籍からランドマークになりうるヒントを見つけて点と点を繋げる作業をしてみるのも、両方やってみるのも、やらないのも、それらの選択も含めて自分ですね。


自分で考える力。
自分なりの学習方法を編み出す力。


それをつけるためには時間を掛けて試行錯錯誤してみることも必要だなと感じます。

 


子どもたちと過ごしていると、どうしても結果を先走ってしまう瞬間があります。

 


先回りして経験を顧みて
「この前◯◯だったでしょ。」


経験の多い保育者です。
「◯◯は〜だよ。」
「それじゃなくてこっち。」


よく保育者向けの雑誌やSNSの投稿でも見かける話です。知っている・理解していることと行動のギャップをどれだけ埋められるかが、残り2ヶ月でより詰めたいところですね。

 

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今日はサバイバルナイフの基礎講習を受けてきました。そしたら主宰の方が子どもたちにアウトドアスキルを伝えながら"自然欠乏症候群"について広めている方でした。


動くと繋がりますね。

付いていけていないのは身体だけではなかった。

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SNSマーケティング戦略にまんまとハマり、気づけばTwitterでフォローしてたり口コミを見て目にした方の書籍を読みまくっていることに気づきました。


最近「気温差が激しすぎて身体がついていかない」的なツイートを投稿しましたが、私たちが付いて行けていないのは身体だけではないなと実感する記事がSNSで回ってきました。

 

dot.asahi.com


「それってズルくないですか?」
「他人の幸せがつらい。」

 


そもそも相手が自分よりも上に見える・恵まれて見える基準となっているものは何でしょうか。


少し前、私たちの親の世帯までは持ち家があったり、車があったり、国立大学に入学するなど、ステータスを表すものさしがより明確であったように感じます。


今はホテルを転々としたり、サブスクリプションで国内国外を移動しながら生活するスタイルも現れて、持ち家があり定住できる場所があることの見方は以前よりも変化していますし、車に関しても購入する若者の数は減少傾向。同性婚や子どもがいない家庭の在り方も広がっています。実際私の周りでも事実婚の方は増えている。

 

幸せに対する考え方が多様化しているなぁーとしみじみ。


誰だって自分の幸せや望みを追いかけて叶えたい願望が多かれ少なかれあると思います。あって良いんです。


他人を比較の対象として捉えないこと
三者的な視点を持つこと
そして、世間の流れをしっかりと捉えていく事。


私の親を見ていても、主な情報の収入源はテレビ、新聞。しかし、SNSを開けば、テレビメディアでは扱われない情報がたくさんあり、オンラインサロンなどグループでのみ共有されている情報や仕事がある。


自分の置かれている立場は、他者に影響を受けて困難に直面することはあっても、そこある選択肢を選び、作ってきたのは私たち自身です。


「若い人はどこでも就職できるのがねたましいし、腹が立つ。私なんかはもうどこにも行くところがない」


その問いをぶつけたいのであれば、それは他者ではなく今までの自分自身だと思うのです。

 

自己責任の姿勢。

 

 

 

最近まとまらない頭の中の忘録。

 

 

その言葉はどこから評価して出たものですか?

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すでに利用されている方、もしくはサービスを提供する側としてご存知の方もいらっしゃると思いますが、マッチングサイトを介したベビーシッターの利用は保護者の勤務する会社等を通して、福利厚生サービスを適用することが可能です。
 
利用料金が割引されることで、保護者の方々がベビーシッターをより身近に感じ、利用していただけることは私のような働き方をする人にとってもとてもありがたいことです。
 
一方で、たまに頭をよぎるのが、
私の働きに対して掛けられる言葉は果たして、私が設定した価値に対するものなのか、それとも福利厚生を適用した金額によるものなのかということです
 
ここからは私が個人的に不安に駆られることの振り返りですが、ベビーシッターを利用したことがある方、また考えている方にとっては、そんな風に思われているのかと気分を悪くされるかもしれません。何卒ご了承ください。
 
 
 
 
「家事がゆっくりできて助かります」
「仕事が捗りました」
「代わり子どもと遊んでくれる人がいることが嬉しいです」
 
ご自宅にお伺いすると掛けていただく、嬉しい言葉の数々。毎回、自分の設定した金額を超えたものを残せるようにご家庭へ出向いている側としては、やり甲斐でありモチベーションを保つ大切なきっかけになっています。
 
しかしふと先日、
 
「福利厚生のおかげで今日の分も2000円以下なんですよ。ありがたい。」
 
とお話しを伺った時にすごく不安になりました。
 
私は自分で設定した金額以上の仕事をして評価をいただいていた気になっていたけど、それを割引された値段の仕事と捉え評価している方もいるのではないか。
 
今までかけてもらった言葉が
「2000円で」「2000円にしては」
と付いたものだったら、、、
 
もちろん私には時給設定した働き分の金額が入るし、より日常生活に則した形でベビーシッターを利用してもらうためにも使えるものは使うべきだと思っています。
 
一方で私が不安に感じているのは、金額ではなくその捉え方です
同じことは、10月から始まった幼児教育・保育の無償化にも言えるではないかと。
 
無償になることを、憲法にも記されている「教育を受ける権利」、また、子どもの権利条約の権利である「生きる権利・守られる権利・育つ権利・参加する権利」として捉えるのかどうか。正直、全年齢すべての家庭に無償化が適用されるわけではないので、これを権利としてお話ししてよいかという点についても賛否両論あると思いますが、無料になるという事実だけを見ている場合とそうでない場合では、考え方等に違いが出てくるのではないか。ふとそんなことを考えます。
 
園に勤めていた時は、減免などがあっても対象家庭を把握する以上自分事として捉えていませんでしたが、個人事業主として働き始めたことで直にその影響を感じるようになりました。
 
私も無料や割引は大好きです。レシートに割引券が付いていたり、スタバでアンケートレシートが出たら声を出さずにはいられません。
 
しかし、無償化の他内閣府ベビーシッター割引制度なるものも始まり、ベビーシッターとしての働き方もこの一年で劇的に変化し、複雑化しているように感じます。それはポジティブであると一概に言えません。これから2020年にかけては教育改革に向かって幼児教育を含む教育分野で引き続き様々な変化が見られると思います。
 
今の段階から2020年以降を頭に置いて流れを掴み、行動することが大切だなと感じながらも、日本という国自体に疑問を感じることも多く、教育の分野に限らずなんだかモヤモヤします。このモヤモヤの正体が何なのか言葉にできるようでできない感覚ばかりが増えています。なんだこれ。

きみがいるからおもしろい。

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こんな こ いるかな
というアニメ・絵本をご存知の方はいらっしゃるでしょうか。1986年からNHKテレビ「お母さんといっしょ」の中で放送されていたショートアニメーションで性格や行動の異なる12人のキャラクターで構成されています。


今回、そのキャラクターたちをシャドーボックスにした展示会があるというので、仕事と仕事の間に行ってきました!

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シャドーボックスの緻密さに触れて、小さな頃のことを思い出して嬉しくなったと同時に、私たちはこんなに優しいメッセージと共に育てられたんだと胸が熱くなりました。

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人はみんな同じではない。顔や体や性格が違うのは当たり前。よい子・わるい子なんて考えもしない。子どもたちに「きみがいるからおもしろい」ということを伝えたかったからです。

 

子どもたちに受け入れられたのは、しくじっても叱られない、のびのびと遊びまくれる"解放区"を見つけ安堵・共感したからからではないでしょうか。

 

もちろん性格はそんなに単純なものではありません。でも、性格を一つだけ表すキャラクターの分かりやすさが好まれたのです。自分と似た部分を発見したり、優越感を感じたりしているのです。

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金子みすゞが「みんなちがってみんないい」と歌った時代、こんな こ いるかなが放送され「きみがいるからおもしろい」とテレビで流れていた30年前から、子どもたちのありのままを伝えるメッセージがあったこと。


そして、大正自由教育運動の中にあり、それまでの画一的な教育と子ども中心の教育を目指す運動の渦中にいた金子みすゞも、こんな こ いるかなの放送が始まる少し前、戦後に施行された旧教育基本法の前後で育った先生たちで教育や子どもに対する意見の相違が出ていた昭和40年〜60年頃にも、今私達が話しているような子ども主体という考え方を進めようとする動きがあった事実。


数十年以上の間続く、子どもや教育に対する現実とその時代のギャップに圧倒された一日でした。


幼児教育無償化がはじまり、英語・プログラミングが小学校で必須となるこの数年間の大きな流れは後々どのようにウィキペディアに載るのか。

(あるか分かりませんが...)

 


その流れの中に間違いなくいる自分を見つけ直すきっかけになりました。


それにしても可愛かったなぁ。 

Activity Dayから省みた、魅せようとしていた自分。

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先日、Activity Dayで園を飛び出して親子で遊びました!ミニ運動会のような感じかな。


先生がそれぞれアクティビティを考え、サーキット形式で子どもたちが保護者の方と回る。ヨガを取り入れたり、先週から始まったラグビーワールドカップに因んでラグビーボールを使ったゲームもありました。


時間が経つのがあっという間で、子どもに負けず楽しんだー。


最近感じるのは、季節などひとつテーマがあったり、使う廃材が決まっている中でアイデアを出すのは得意だけど、何も条件がない真っ新な状態でアイデアを出すのは苦手だという自分の性格。


また、先生たちが考えたアクティビティを見て、自分だったら何をするだろうと考えて、子どもたちが参加するゲームに世界観を求めている自分に気づきました。

 


ミニコーンの下に隠してあるボールの中から、自分が選んだボールと同じ色のボールを探してくるというシンプルなゲームでも、以前の自分だったら装飾を加えようとするだろうなと。たとえば、ボールを子魚に見立てて、子どもたちが被る魚の帽子をバトンがわりにするとかね。「なにをするか」「どうやるか」よりも「どう魅せるか」だったのかな。旗体操やりまーすで良かったところを、なぜ「水兵さんに変身した子どもたちと銘打っていたのか、今思い返すと疑問が湧く。そして子どもたちは後付けで水兵さんが何かを学んでたな。


先日参加した文章のリライトを行う中でも感じたシンプルにすることの難しさは、これからの働き方、プライベートでも、ひとつ課題になっていくのかなと思います。たくさん考えて一周回って帰って来たシンプルは強い。


 

日本語をリライトしたら、たった3文に5種類の解釈。いや、きっとそれ以上。

 
正直、内容はこれから日本語教師の資格取得を目指す人向けという感じで、コース説明などに費やす時間が多い印象でした(そういう団体が主催していたものなので当たり前ですが)が、収穫はやはりそこに集まる方々の話が聞けたり、意見が交わせたことですね。
 
今日はリライト法を実践しました。
国語の教科書に載っている内容を短文化したり、簡単な日本語に直したり、文化的な背景のある一文は時に省略して、日本語を母語としない子どもたちがより理解しやすい、アプローチしやすいものへと変えていくことを指します。
 
これが思っていた以上に難しく結構悩みました。参加者の間でもどこまで簡略化して、どこまで残すのか議論があり、子どもたちの生活に近い言葉を選び言い換えたり、主語を付けた文章に変えてみたりと試みますが、結果的に主語が長くなったり、文化的に理解が難しい表現部分を省略するも、次の段落で必要な情報だったりと普段話している日本語がどれだけ複雑かに気づかされます。
 
5人それぞれ同じ物語の同じ段落をリライトして、その後作った文章をシェアをしましたが全く同じ表現はゼロ。たった3文程の短い段落でしたが、これだけ捉え方が異なり、表現が違うと日本語の豊かさにも気づかされたり。
 
子どもたちの習得具合や学習目的、自国の文化的背景など本当に様々な要素が加わっていると感じたと同時に、言葉の奥深さに圧倒されます。アイデンティティは幼少期に形成され、固定されるものではなく流動的なんだという捉え方も自分の中に生まれました。これは詰めるとかなり長くなりそう。
 
当分は日本語教室のサポートをしながら、実際に日本語を学ぶ子どもたちを肌で感じたいと思います。
 

熊のニュースからおじいちゃんと間について考えた。

 

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人里への熊の出没が多発しているという記事を読んで。
 
熊が人里近くに現れるようになったのは、
森林と人里の間にある中山間地域の境が
過疎化やそれに伴う高齢化と管理不足で曖昧になったからだと。
 
この記事を読んで『ゆっくりおじいちゃんとぼくという絵本を思い出して、同時に『』の大切さを感じました。
 
これは物理的なことに限ったことではなく感覚的な部分も。子どもも大人もパーソナルスペースがあり、初めて子どもと接する時は、いきなり近づくのではなく子どもたちの様子をまず観察してみるところから始めると思います。大人についても、仕事とプライベートにしっかりとボーダーを引きたい人もいれば、そうでない人もいる。SNSも毎日かかさずチェックする人もいれば、見なくてもOKな人がいる。それぞれ相手に対する『間』がある。
 
相手がいてこその『間』であり、
『間』は相手を分かろうとする気持ちだと。
 
もちろん過疎化や境目の不透明さも一因だとは思いますが、自然との境を超えて開拓し始めたのはいつからか?そしてその土地に住む他生物に対しての『間』や理解の意識が薄くなったのはいつからか。
 
小さい時に庭手入れ好きだった祖父が、手をかけすぎない。植物を待つ。って言ってて、それが祖父の考える自然との『間』だったのかなと今思う。きっとおじいちゃんなりの自然に対する敬意だったのかなと。
 

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ちなみに『ゆっくりおじいちゃんとぼく』は、いつも大忙しのおかあさん、おとうさん、お兄ちゃんお姉ちゃんたちに対して、いつもゆっくりゆっくりなおじいちゃんとぼくのおはなし。
 
私が生まれる何年も前、1979年に発行されてる。
古いけどなーんか新しくて好きな絵本です。
 
 
最近、個人的にもバランスを考える場面が多く、この絵本と熊のことが頭に浮かんだので備忘録。